盛況だった「夏の会員交流会in東京」

2.屋形船でのクルージングが好評だった、品川での「浜川砲台跡研修ツアー」

@.京急鮫洲駅から、「しながわ花海道」へ

平成16年7月3日(土)、午後0時、鮫洲駅の改札口前の広場に集合。資料を配布し、点呼をとったら、早速、鮫洲駅を出発。灼熱の中、駅から、歩いて鮫洲八幡神社を経由して、「しながわ花海道」へ。ん、まてよ、「花海道」って、「龍馬のふるさと高知の、桂浜に行く途中の海岸道路の愛称」と同じジャン! 高知では、けっこう以前から、海岸線沿いの幹線道路を、「街道」ではなく、「海の道」と書いて「海道」という愛称で呼んでおり、まして、「花海道」は「龍馬につながる道」。真似っこか?と思いきや、何と驚いたことに、これが偶然の一致で、「しながわ花海道」は、沢山の子ども達が活動に参加している「品川のまちづくりグループ」が長い間の住民運動で創りあげ、その成果に対して「東京都の今年度のまちづくり大賞」までいただいたという由緒正しいもので、春はナノハナ、夏はヒマワリ、秋にはコスモスを、地域住民が手入れをして咲かせている地域のまちづくり活動の象徴のような存在なのでした。そこは、海岸(勝島運河)沿いの堤防斜面一杯に花が咲き、(住民主導のまちづくり活動の苦労話が余計にそう感じさせたのかもしれないが、)本来殺風景だったであろう斜面を心地よい空間へと、みごとに変貌させていた。

A.屋形船よる、品川沖クルージング

しかも、地元の方達のご好意で、屋形船をチャーターしていただいており、「龍馬が見たであろう黒船が停泊していたと思われる羽田沖」まで、その屋形船で案内していただきました。
 船中では、小美濃先生の、熱心な歴史考察に、参加者は皆、時を忘れて聞き入った。浜川砲台跡や土地藩邸の当時の絵地図・アメリカが作成していた当時の品川沖の詳細な海図など、「さすがは小美濃先生だと」、参加者をうならせる興味深い資料が次々と出てくる。さらに、地元の世話役の方達からも、熱意あるご説明をいただき、このまちが、今、全国で最もホットな「龍馬ゆかりの地」であることを実感した。

実は、私は、学生時代は東品川に住んでいたのですが、このような屋形船に乗るのも、海からの景色も初めてで、思いがけない小1時間のクルージングを堪能しました。特に、都民の憩いの場となっている臨海公園は、すべてが人口的な造作とは思えないような、すばらしい水辺環境が創出されており、都会のオアシスを船の中からしばし楽しむことが出来ました。

B.「しなかわ花海道」から、「浜川砲台跡」へ

屋形船の快適クルージングの後は、皆で記念写真を撮って、いよいよ本命の「浜川砲台跡」へと堤防伝いに歩を進めた。だが、そこは、何の変哲もない、ただの鉄筋コンクリートの堤防が存するだけであり、しかも石を発掘した場所も単なるミニ開発の建売工事現場で、砲台跡というイメージで、それなりの風情を期待していただけに、少々拍子抜けしてしまった。とはいえ、この地区の「龍馬によるまちづくり」の発端となった、浜川砲台跡の石垣の石には、警護に来ていた若き日の龍馬が、もしかしたら触っていたかも知れない、少なくともこの近くにいて同じ時を過した物だと考えると、関係者と同様に強い思い入れを感じずにはいられない。石垣の発見の記事がマスコミに載った日に、沢山の石が一夜にして持ち去られたと聞いた。それは前述のような龍馬ファンの思いがさせたのだろうか。それとも別な思惑で持ち去ったのか。いづれにしても、とても残念なことである。


C.「浜川砲台跡」から立会川の「なみだ橋」へ

浜川砲台跡地は、土佐藩邸のあったエリアの南側に沿って流れている立会川の河口にあたり、龍馬がかつて藩邸と砲台との往復にあるいたであろう立会川左岸に沿って歩き、少し上流の当時の東海道であった道に架かっている浜川橋へ。この橋は、鈴ケ森の刑場に引かれる罪人とその家族が涙ながらに別れたということから、「なみだ橋」と呼ばれ、歌舞伎や小説にもしばしば登場すると、当日案内役をして下さったしながわ観光協会常任理事の綱嶋さんの、ハンドマイク片手に熱心な説明が印象に残った。
 立会川は、「JR総武線の地下部分に湧き出る地下水を川にいれるようになってから水質が改善されつつあり、昨年は、それを裏付けるようにボラの大量発生で話題となった川である」と聞いていた。しかしながら、私が目にした立会川の水は、放流先である花海道沿いの勝島運河の水と同様、濁っていて異臭もあり、きれいとは程遠い、海の潮が流入する満干のある川であった。

D.【いま一度日本を洗濯する】プロジェクトを提案

それを踏まえ、後日、今回の交流会の準備を担当した当会幹事の長坂さんから、「【江戸湾を龍馬の見た青い海に戻す】ために、坂本龍馬倶楽部が発起人となって、【いま一度日本を洗濯する】プロジェクトをやりましょう」との提案があった。私は、その提案が非常に面白いと感じ、早速、坂本龍馬倶楽部の役員会にかけたところ、「やってみよう」ということになった。
 プロジェクトの成否の鍵は、住民との人の和が必須。そこで早速、小美濃先生を通じて現地の世話人の方達に提案したところ、賛同も得られ、少しづつではありますが動き初めています。

実は、私も、高知で、NPOという立場で、「海の玄関である浦戸湾を次世代の子ども達に宝物として引き継ごう」と言うスローガンの下、水質浄化をも含めた再生・活性化のための活動を企画提案している「浦戸湾みらい会議」の事務局長として活動する中で、海及び流入河川の水質の浄化による環境再生活動の大切さを実感しております。しかも、意味あいは異なりますが、龍馬の名言「日本の洗濯」ですから、これも何かの縁、当坂本龍馬倶楽部が、「江戸湾浄化」の発起人となるのも面白いのではないでしょうか。
 ご存知のように当倶楽部の会員は、北海道から沖縄まで全国にいます。しかも、この活動は、「日本の洗濯」ですから、江戸湾に留まらず、賛同いただける地域住民の和が存する地区なら全国どこでも支援するつもりで、洗濯(水辺環境再生活動)の和を拡げて行くことにしましょうヨ。
 ところで、この活動は、実現しそうもないような提案ともいえなくはないが、実は、愛称ながらも、空港ビルの看板や道路標識の書き換えを含めて、名称変更を実現した「高知龍馬空港」という日本初の人名空港は、ご存知のように、当会の呼びかけをキッカケとして実現しました。当会会員からの、「日本にも人名空港が有ってもいいし、日本初の人名空港となるべき人物は坂本龍馬だ」との提案を受けて、今回同様、役員会で検討し、手探りで開始された当坂本龍馬倶楽部の活動に対して、高知県内の青年団体を中心とした各種団体が賛同して「高知龍馬空港を実現する会」を立ち上げた。その会の活動を、県内始め全国から寄せられた支援が後押しをして、3年掛かりで実現に漕ぎ着けた。まさに、「成せばなる」です。

E.立会川の「なみだ橋」から「立会川商店街」へ

なみだ橋から上流の立会川左岸堤防は、隣接する商店の裏手となっており、そこからは堤防沿いの道ではなく、その商店街を歩くということで、旧東海道を北へ。すると、すぐ西に、「若き日の龍馬がゆく」と描かれた青地にしろ抜き文字の旗を、両側のすべての街路灯に吊るしてある、下町らしい情緒を漂わせた小さな商店街が出現した。これこそが、「龍馬通り商店街」という名称にしようという動きのある、「立会川商店街」であり、若き日の龍馬が歩いて土佐藩邸と浜川砲台との間を往復していたのではないかと言われている道である。


残念ながら、この商店街は、幅が狭いのに車が結構通過して、のんびりと散策できるというような風情とは縁遠い状況であった。車をよけつつしばらく進むと、隣接して北浜川児童遊園が有り、子供会らしき団体が賑やかに七夕かざりの準備をしていて、活発な住民力の一端を垣間見ることが出来た。
 そこで小休止をすることになった。すると、立会川商店街の織戸会長が、みずから経営する向かいの果物屋で、冷たく冷やした大量の果物を提供して下さり、参加者全員、そのおいしさになかなか手が止まらなかった。そんな中でも、小美濃先生は秘蔵の江戸時代のこの藩邸付近の絵図面を広げて、今の住宅地図と比較しながら、これから行く土佐藩邸跡のエリアの説明に余念がなく、参加者は、興味深い話に、果物を頬張りながらも熱心に質問していた。

F.立会川駅前広場にて

再び、立会川商店街を西に歩いていくと、京浜急行の立会川駅前のガード下にたどり着いた。すると、先程の子ども達が、道行く人々に七夕の短冊書きを勧めていて、私を含め何人かの参加者が、短冊を書いて笹に飾った。駅前には、品川のまちづくり活動の目玉の1つであるペットボトル回収器があり、いきさつの説明を聞いている間にも、若者達が活用していた。


 その駅前に、今回の案内も含め、こうした「品川のまちづくり活動の事務局」の役割を果たしている永尾さんが借りている事務所があり、今後の「龍馬をキーワードについた品川のまちづくり活動の拠点」となることが期待されている。この永尾さんは、話題になった「ボラによるまちおこし」の中心人物であり、経営するリサイクルショップ゚で、オリジナルのボラちゃんや龍馬のTシャツも取り扱っており、地元のイベントの度に、その活動を支援するオリジナルスタッフTシャツも製作し提供している。

F.品川に「龍馬像」を、

「龍馬通り商店街」にしようという立会川商店街事務局長の永尾さんが、「龍馬によるまちづくり」の中で、今最も楽しみにしているのが、龍馬の生誕地であるホテル南水の玄関に飾ってあった龍馬像を、立会川駅前に移設することであり、そのための調整が大詰めを迎えており、この秋には、高知市長を招いて盛大な除幕式が行われる予定となっている。
 しかしながら、それは、単なる「龍馬によるまちづくり」の1ステッブに過ぎず、彼らの望みは、浜川砲台への「若き龍馬像」の建立である。もしかしたら、今秋の京都での「全国龍馬ファンの集い」で、「若き龍馬像建立募金」の募金を始めるかもしれない。



G.「土佐藩邸の敷地」の範囲を現地確認

 土佐藩邸の敷地は広大で、しかも現在の幹線道路の方向と異なるため、今でもその敷地を囲んでいた通りが住宅地図を読むと確認できる。現地での、小美濃先生の研究者堅気の熱入った説明を受けつつ、その場所を、実際に歩いて確認してみた。

H.「土佐藩邸敷地」の北側の側道から、「来福寺」へ

参道の風情のあるたたずまいを楽しみながら、幕末当時の建築物である山門をくぐって、平安時代中期創建という由緒ある来福寺を訪れ、庭に癒され、住職のお話も伺うことができた。



I.土佐藩主、山内容堂(豊信)の墓の有る土佐山へ

土佐藩の15代藩主、山内豊信は、福井の松平慶永・薩摩の島津久光・宇和島の伊達宗城と幕末の四賢候と云われ、幕政にも大きな影響力を与えた人物であるが、安政の大獄の際に謹慎を命じられ、名を容堂と改め、品川下屋敷で過した。未だに土佐山と呼ばれているこの山は、当時はここから海を望めた絶景の丘であり、山内容堂がこの地をこよなく愛し、本人の遺言により、ここに眠っている。とはいえ、この山は今では立会小学校と公園になっており、残念ながら今の山内容堂墓所は、小学校の工事の際に移設されたものである。

J.再び、鮫洲駅、そして、解散

いつの間にか、出発点の近くまで帰ってきていて、山内容堂の墓所から、基点の鮫洲駅は、歩いてすぐのところであった。今回のゆかりの地めぐりツアーは、屋形船での移動を除けば、1キロ弱の距離に有る鮫洲駅と立会川駅とを両端とした3キロ程度の散策であったことになる。歩いた距離は然程ではないが、降り注ぐ太陽による暑さと、小美濃先生を初めとする説明者の熱い思いとの相乗で、参加者にとっても心に残る熱いツアーとなった。
 尚、このツアーには31人の参加が有りました。しかし残念ながら、その内の14人は、夜の懇親会に参加出来ませんでした。

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